ンガリー国立歌劇場・デビュー公演-その2

プッチーニ作曲/歌劇「ラ・ボエーム」(全4幕)1999年10月12・15日


出演
ロドルフォ/フェケテ・アッティラ (FEKETE Attila)    ミミ/シュメギ・エステル (SÜMEGI Ester)
マルチェッロ/ブシャ・タマーシュ (BUSA Tamás)   ムゼッタ/フュレプ・ジュジャンナ (FÜLÖP Zsuzannna)
ショナール/コヴァーチ・パール (KOVÁCS Pál)   コルリーネ/キラーイ・ミクローシュ (KIRÁLY Miklós)
ベノア/スィラージィ・ベーラ (SZILÁGYI Béla)   アルチンドロ/ロージィ=ビーロー・ヤーノシュ (LÓZSY-BÍRÓ János)
パルピニョール/チキ・ガーボール (CSIKI Gábor)          その他の皆さん
演奏
ハンガリー国立歌劇場管弦楽団   ハンガリー国立歌劇場合唱団 及び児童合唱団

 

翌日、指定された場所はオペラハウスの右横の路地をはさんだ建物の中にあるリハーサル室。ここはかつてオペレッタ「サーカスの女王」(カールマン)や「ジプシーの恋」(レハール」のCD録音(*1)のためにここのオケとリハーサルをした懐かしい場所だ。開始時刻近くなって一人、また一人と歌手たちがやってくる。その中で3人の新たな顔に出会った。一人の若い女性はこの公演のプロンプター(歌手に舞台上の隠れたボックスから歌詞を教える)で、「楽しみにしてるわ!」と気さくに声をかけてくれた。一人の男性はピアニスト。いくつぐらいなんだろう?かなり御歳を召しているように見える。きっと数々の公演のコレペティトゥーア(オペラ伴奏)を経験した老練な方なんだろう。そしてもう一人の中年男性。どことなく指揮者ブーレーズを思わせる風貌のこの人が、今回の演出担当のナーダシュディ・カールマン(NÁDASDY Kálman)であった。

 彼の話によると、ここハンガリー国立歌劇場ではこれまでの「ラ・ボエーム」公演で3人の演出家(*2)が演出を担当してきたそうで、大筋の基本の立ち位置などに変更はないものの、細かな動きに混乱があるということだった。なぜ3人もの演出家が同じ公演で?と疑問に思ったが、製作当初のプレミエ(初演)、その後の手直し、そして'98のシーズンにヴェローナ野外オペラ劇場(イタリア)との共同制作による新装置(舞台上のセット)の導入による手直しと微妙に改善が施されているそうである。しかし歌手によってはその微妙に違うそれぞれの演出で公演を行っており、相手役によってその確認が必要になってくるというわけである。

 リハーサルが始まった。舞台上のセットを想定した道具(机や椅子など)をうまく配置して、実際の動きをつけながらの稽古である。でも僕自身にとっては、前日に確認した様々のポイントを歌手とどうコラボレーションするかが今日の練習の鍵となるはずだった・・・。ところが、ここでも大劇場の大きな壁はこの新参の指揮者を圧迫しつづけた。老練な、いや老狡なこのピアニストはなかなか僕のテンポに乗ってくれない。アゴーギク(テンポの揺れ)やアクセント(音の強調)など棒と関係なくついてくるし、その棒とのズレをさして気にしているようでもない。たまりかねて特に大事なポイントでは一旦音楽を止めて、注文をつける。しかしまた再開してしばらく経つと元の木阿弥だ。自分の思い通りのテンポで音楽が進行せず、所々こちらが合わせながら振りつづけるのは一番肉体的にも精神的にも疲れを増長させるパターンだ。少し考えを変えて、この流れに乗ってみることにした。(実際に後で公演を振ってみて気づいたのだが、これがオーソドックスなここの劇場公演のオケの流れだったのである。彼はそれに基づいて演奏をしたらしい?!) 今はどうしても歌手に集中したかったのである。

 しかしその集中ですらも度々中断させられた。もうひとつの大きな壁は演出だった。通常オペラの製作といえば、指揮者と歌手との音楽稽古、その音楽に基づく演出と立ち稽古、全てを包括した最終リハーサルという順番で行われる。つまりその演出、もっとわかりやすく言えば歌手の個々の動きにはそれに基づく指揮者とのリハーサルによる元々の基本的なテンポや音楽が存在しているわけである。それなのにこの時僕が行っていたのは、これまで別の指揮者がここでで行ってきた音楽&演出と違う、自分が指揮者として実現したい(自分の感覚でスコアから読み取った)テンポの設定であり、音楽の運びであったのだ。これではどうしてもその演出とかみ合わず、歌手の動きもギクシャクしてしまう。しかし悲しいかな、その時の僕はオケ合わせの失敗から何とか自分のペースに持ち込もうとしてそのことに気付かなかったのである。

 案の定、事あるごとに「ちょっといいか?」と演出家からストップがかかる。しかし問題は私サイドだけでなく、歌手サイドにもその比重は大きかった。もう何度もこのオペラのタイトルロールを歌っているミミ役のエステルに対し、出演者の中で一番若いロドルフォ役のアッティラの動きはぎこちなく、しかも二人の呼吸が合わない。そして、マルチェッロ役のタマーシュは今回この劇場に初めての登場なのである。当然一度ストップがかかると彼らの動きの確認や立ちのみの稽古に事が終始し、自分の音楽の流れの実現がここでもできなくなってしまうのである。

 たまりかねて、第1幕の通しが終わった後に、音楽稽古を要求した。動きや立ちを一切つけず、歌手たちには棒の音楽のみで歌ってもらい自分の音楽を理解して欲しかった。後から考えるとこの時はひどく焦ってシリアスな顔をしていたのだろう、そのただならぬ気配に歌手たちもそしてピアニストもとてもよく棒に集中してくれ、大切なオペラの導入に少し自分の音楽が生かされた気がした。と言うのも、もうこのプッチーニの音楽をよく知っている彼らに対して、私にとっての一番の不安は最初のアンサンブルだった。主役のミミが登場するまでの男声のみによるアンサンブルでは、パリで生活するボヘミアンたち(「ラ・ボエーム」!)のそれぞれのキャラクターとその心情や生活の機微が、とても生き生きと作曲されている。つまりこのアンサンブルの出来がその後に繰り広げられるオペラ全体の出来に大き関わっているのだ。主役4人の登場と大家アルチンドロとのやり取り・・・、ここは歌手それぞれの力量とその音楽を運ぶ指揮者との綿密な計算無しではリアリティーに欠けた段取り芝居になってしまう事が最も心配だったのである。極端なことを言えば、ミミが登場した後はその歌手の力量さえよければ、音楽上何にも問題のないのである。この音楽稽古は自分で納得がいく演奏が公演で出来るかどうかの、最初の大きな鍵だったのである。

 しかしそれでも困ったことに、なかなか運の女神は微笑んではくれない。こちらの音楽運びを快く思った演出家は、君の音楽に乗れば何の問題はないからと、音楽の流れが決まると、今度は本格的に演出に取り掛かり始めてしまった。再びの中断・・・こちらは繰り返し繰り返し練習して少しでも確かなものにしたいのに・・・!? どうやら初めてこのオペラを振る指揮者には見えなかったようである。もちろん信頼してくれることはありがたくそう見られることには自信を持っていいのだが、こればっかりは心理的な安心感や確実性をもつ意味でも手放しでは喜べない。全ての演出確認が終わってからもう一度音楽稽古をしたいと思った。(でも結局はかなわなかった!!)

 出演歌手の人数からすると練習の妥当の運びは序幕の次は2幕、4幕、3幕の順番である(3幕にはショナールとコルリーネは登場しない)。その中でやはり難しいのは、4幕の中盤のアンサンブル。ここも4人の男声によるそれぞれのキャラクターがよく表出されている場面で、4つの個性が見事にひとつの音楽の中で表現されているところである。ユーモラスな場面や踊りの場面にはてこずった。一瞬のアインザッツ(音の出だし)の遅れやズレがあっという間に音楽の流れを変えてしまう危ないところだ。そしてその後が死の近づいたミミが彼らのもとに運ばれて来て、一瞬にして音楽が暗転するところである。

 ここはオーケストラともテンポが合わなくて非常に苦慮したところ。絶えず体を横たえて歌わねばならないミミといたわりながら動きを変えるロドルフォ、少ない動きの中で各々の真情を吐露するほかの出演者、中でもミミの回復の祈りを神にささげるムゼッタにはこのオペラで唯一しゃべるような歌いまわしがあって、ここのテンポは振りを2つに感じるオケと歌手に対して、僕が最後まで4つを要求したところである。これは僕の解釈でもあるが、このオペラ全体にわたってあくまでもミミは治ることのない病を抱えて、どんな楽天的なシーンもそれを予感させるテンポと音楽の流れを作りたいと思っていた。しかし、オーケストラやこれまで公演を続けて来た歌手たちはその場その場の音楽の持つ表情やモティーフ(メロディーの最小単位)を基準にテンポと流れを設定している。つまりそれがこの公演を始めたときの指揮者の音楽だったのである。解釈が違えば演奏スタイルやアプローチなど全て変わってしまう。通常それを整理し自分を主張するのが指揮者の役割なのに、悲しいかなその時間と場所が僕には今回与えてもらえなかったのである。

 そしてさらに絶望的なこと、4幕の通しが終わった段階で、ショナール、コルリーネ役の2人はさっさと帰宅の途についてしまった。もう一度音楽稽古したかったのだが、迫っていた練習時間の終わりと次に来る3幕のアンサンブルを考えると、選択の余地はなかった・・・。その3幕の後半、別れを惜しむミミとロドルフォ、その傍らで派手な喧嘩を繰り広げるムゼッタとマルチェッロの2つのカップルが見事にひとつの音楽に溶け込んだ四重唱のシーンは忘れられない思い出の音楽だ(*3)。音楽が雄弁にそのドラマを語るところだけに、動きも重要な要素だ。そのため演出家も自然と熱が入り、それを受けて歌手たちも真剣な表情になる。指揮者としても自分の音楽を運びたいところではあるが、ここは一歩ひいて彼らを観察してみるしかなかった(この頃になると少し余裕が出ていたのか?)。

 あっという間、そう終わってしまえばあっという間の4時間弱のリハーサル(それももちろん休憩も入れて)!。これで明日はもう公演を迎えるのだ。なんという不安、何という不確かな感覚。それでもお客さんに最高の演奏を提供しなければならない指揮者としての義務と、自分のプライド・・・様々な思いが頭を駆け巡る! でも歌手たちにとってもその想いは同じだったようだ。ミミ役のエステルはこの公演の後トロント(カナダ)でやはり同じロールを歌うことになっていると話していた。彼女ももう既に何回も歌っているというのに、やっぱり納得した演技が出来ないと悩んでいた。どの出演者もみんな生身の人間なのである。決してスーパーマンやスーパーウーマンなんかじゃない。同じように悩み苦しみ、でも努力と研鑚を積み重ね、華やかなステージに立っているのである。そう考えると自分にもまだ遣り残した勉強がたくさんあるような気がして、落ち込んで入られないと思って、元気と闘志が湧いてきた。

 そしていよいよ公演初日を迎えた・・・。


<ハンガリー国立歌劇場正面入り口>
上方テラスの前に見える像は、有名な作曲たちの立体像である。(プッチーニ、ヴェルディ、モーツァルトなど)

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*1 ハンガリーのプライヴェート・オペレッタ・カンパニー<ミューヴェス・ハーズ>社による製作のCD第2、3弾に当たるもので、歌っている歌手はハンガリー国立ブダペスト・オペレッタ劇場で活躍中のカロチャイ・ジュージャ(Sop.)やハルシャーニ・フリジェシュ(T=Bar,)、オズワルド・マリカ(Sup.)ら。このCDは井﨑正浩後援会を通じて日本でも入手できる。

*2  3人の中には現総裁シネタール・ミクローシュ氏も含まれている。

*3  ブダペストコンクールに井﨑が優勝する前年の’97の7月に開催されたジュネーヴ国際コンクール<指揮部門>(エルネスト・アンセルメ・コンクール)に井﨑も書類審査、東京予選を通過して参加しているが、この時の課題にオペラの四重唱が含まれており、このボエームのそれもその中のひとつであった。現在活躍中の指揮者、阪哲朗、曽我大介、村中大祐らと井﨑はここで知り合っている。

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