~ハンガリーレポート③~

~総監督の仕事と重責~

成田空港から経由地のドイツ・フランクフルトまで約11 時間半のフライト…日中のフライトなので窓の外は明るい日差しだが、窓下のほとんどは氷と万年雪に覆われたシベリアの大地だ。氷紋を見てそれこそ背筋が寒くなる思いだが、この景色はフランクフルトに近付く頃から…そしてまたフランクフルトから約2時間のフライトでブダペストに近付くにつれて様相が一変する。地面は緑一色の草原と耕された大地の茶の色、そして一面に咲きわたる花の黄色が場所々で目に鮮やかなコントラストを作り、その合間には積み木を並べたような建物が立ち並んでいて、どれも同じ赤茶色の屋根で統一され街並みがきれいな区画になっている。そう、またハンガリーに帰ってきた! 空港に降り立つと、いつものようにターミナルにあるWelcome!”の大きなハンガリー美女の写真看板がまた私を迎えてくれる。

 

前回4月(’07)に帰国後約1ヶ月の間、必要なことはメールや国際電話でやり取りをし、そして6月になって再びソルノクに戻ってきた。その間音楽総監督としてやらねばならない仕事は山のように溜まり…次のシーズン(‘07・9 月~)の予算の折衝、準備、人事の把握、事務所の設立…短い滞在中に効率よく仕事を次々とこなさなくてはならない。考えてみるとハンガリーと縁ができて12 年間、今回のように演奏の予定が全くなしに渡航したのは過去1 回だけ…直前に演奏会予定がキャンセルになり次の演奏の打ち合わせに来た時…のみである。その時に比べてずいぶん自分を取り巻く環境が変わったことに本当に驚いてしまう。

 

最初に取り組む仕事はもちろんソルノク響のこと。これまでの年間の定期公演数は5回(注1)で、これに国営コンサートエージェントとの提携でブダペストや他の地方オケがソルノクに来てソルノク定期と称して行う公演 (注2)が加わる仕組みであった。しかしこれではあまりにも少なく、今回の総監督就任を機にアバ・ノヴァーク文化センターでの定期演奏会を6回、そして前回視察したソルノク市内での様々な場所で形を変えて行う定期演奏会を5回と増やし(注3)、一気に倍以上の公演数にすることにした。当然そのためにはオケのこうした活動をアピールするための冊子も必要で、新たにプログラム冊子を作るための編集体制を敷き、オーケストラの集合写真も撮り直しをした。コンサートホールの確保やソリストとの交渉、ツアーの計画立案やスポンサー探しと交渉…考えればキリがないほどやるべきことはいくらでも出てくる。しかも不思議なことにこうしたオーケストラとしての管理・運営活動はこれまで行われていたにもかかわらず、それほど外部には目立ったものではなかったように思う。これらは全てオーケストラ独自の私的活動内にとどまり、市の公的活動の一部になっていなかったのである。市が援助するオーケストラであれば、すべての行動は市と繋がり、またソルノク市立という名が前面に出るよう活動しよう!…これが市音楽監督としての最初の見解だった。

(注1) この定期演奏会5回に加え、市の公式行事での演奏やオケ独自の他の演奏会が加わっていた。

(注2) 以前芸術監督を務めたサヴァリア交響楽団でもこのシステムがあった。考えてみれば、そのオケの定期演奏会ラインナップに別なオケの演奏が加わるのはおかしな習慣である。

(注3) それぞれ<アバ・ノヴァーク定期>、<ファンタジア定期>と命名された。

 

 

思わぬつまずき…

ソルノク響の年間予算収入のうち約35%を政府文化省からの補助金、また他には所属している市文化センターを通して市からの交付金が約25%を占めている。来シーズンからは定期演奏会の総数を増やしプログラムも拡充して多くの招聘団員も必要となることから、予算はどうしても総枠を増やさねばならないが、私の総監督就任は国の関与するところではないので、その政府助成金枠は当然ながら増えない。結果、市からの交付金増をお願いせねばならないことになる。だが私の就任にあたっては市長と市関係者の強い希望・後押しがあって実現したのだから、予算増は割とすんなり認められるものと思っていた…しかもお願いした増枠はごく控えめな5%増である。ところが!この折衝は最初からつまずいた! 目の前に立ちはだかったのは、こともあろうに文化センター館長のイシュトヴァーンだった。4月のルーマニア公演にも同行し、私の総監督就任を喜んでくれたあの人物が?…マネージャーのヴェロニカが伝えてきた「困ったこと」というのは彼のことだった…!

 

アバ・ノヴァーク文化センターは音楽・美術・舞踊などの芸術分野や古典伝統部門から、言語や生活、宗教といった幅広い分野に渡る文化一般に関する行事や催し物を開くことを目的としている。予算体系を簡単に言えば市は文化センターに補助金枠を設け、その中からオケにも給付金が支払われている仕組みだ。よってオケの総予算枠を増やすにはその給付金枠を増やさねばならない。ところがオケからは増額を要望されているにもかかわらずイシュトヴァーンはこれに首を縦に振らないのだという。これまで文化センター長として様々な企画を立ち上げたにも拘らず、そのほとんどは市民の同意や人気をなかなか得られず不入りの状況が続いて主催興行収支結果が赤字となってしまい(センターに所属しているソルノク響やバルトーク室内合唱団の公演にのみ人気が集まっている状況だった)、もう予算増の枠がないというのが言い分なのだ。<画像はアバ・ノヴァーク文化センター>

 

またオケの事務的交渉や管理のためにはオケ独自の事務所が必要だ。これまで文化センター内の音楽部門事務所がこれを代行していたが実態に全くそぐわないため、オーケストラ事務局(部屋)開設を!とマネージングディレクターであるイムレが願い出たところ、なんとこれもイシュトヴァーンが却下したというのだ。余分な施設を拡充するスペースはないし全ての決済は文化センターの事務局がこれまで行ってきたから、これまで通り施設内設備利用で自分の名前で決済を行うのがセンター上の決まりだという。しかしこの仕組みではオケとして独立した色々な交渉ができないし、また自分のオフィスが開かれ電話番号やメールアドレスの存在がなければ、私は音楽総監督名の名刺すら作れないことになる。ソリストに舞台で渡す花束を買うにもイシュトヴァーンの許可が必要な状況なのだ。どう考えてもおかしい!

 

これはイシュトヴァーンとイムレとの個人的な見解の相違や対立から生まれるものなのか? いやいや、問題が起こる背景にこれまでの流れや、この市が抱えている行政構造上の複雑な事情が絡んでいる。オケが発足した時代はその組織力が弱かったため、文化センターの部門に所属するのが運営上もっとも都合がよかった。上が単純にすべてを決済すれば予算も通った時代だった…。しかし今日のようにオケの組織が大きくなれば、プログラムの選定から年間計画の立案、演奏家招聘と演奏会実施のための対外交渉、団員の雇用契約や報酬の細かな計算などの細分化された事柄について、総合職の管理ではなく専門的な知識や能力を持つ部門が個別に決定し予算決済をする必要があるのだ。だのにそれができない…つまり、最終決裁権はセンター長にあり、オケ側が勝手にハンコを押して決めることができない仕組みになっているのである。前提となる原則や規約がこれまでと全く変わっていないのに、オケの組織立ては上が任命したIZAKI という音楽総監督の登場で変わったから、これまでの仕組みをセンター長に即座に変更しろと言っても無理な話だった。市はこうした組織立ての改善以前に音楽総監督という役職のみを先行任命させていたのである。

 

市の任命の意図とは

ではその市側は何のつもりで任命してくれたのか? オーケストラの演奏の質の向上や音楽的な充実はもちろん任務の一つではあろうが…これは事実上常任指揮者とか芸術監督といわれる立場の仕事範疇である。“音楽総監督”の仕事というのはここソルノクにおいてオーケストラに限らず合唱団、舞踊団、劇場やその他の音楽団体との交流企画と総合的な音楽レヴェルの向上はもとより、市全体の音楽状況(=市場)を考えたり音楽というジャンルの地位向上やソルノクから外に向けた音楽上のアピールを行ったりする必要があると私は考えている。ドイツをはじめヨーロッパの各都市では当たり前に存在するGMD=General Music Director はどこもその地位と役割がはっきりしていることから、私、も「音楽“総”監督」という役職を拝命した以上、こうした具体的なことが自分に求められるものだと思っていた。ところがいざその地位に就いた後に周りの状況を調べ自分の置かれている立場を段々と知るにつれて、私はある重大なことに気付き始めた…(市長の命により)任命したこの市自体、私が一体何をすべきかについて漠然としたイメージはあっても具体的な個々の仕事内容について考えを持っていなかったのだ!! 「総監督という名はあるのに、実体的な市の組織上のポジション(公的役職地位)がない」「総監督としての決定には法的権限や拘束力がない」「全体の組織立てに変化がないので活動がしにくい」 そして「市の雇用条件が曖昧で報酬はオーケストラ総予算から支払われる非合理性がある」 仕事を進めるにあたって次々に気付いたこうしたジレンマに、私は困惑するばかり…! そして気づいた最初にすべき仕事が「私が私自身の仕事内容を決め、それを市幹部に説明して公認させる」という“主客逆転”あるいは“本末転倒”とも言うべき奇妙なものだったのである。英語で監督は”Director=ディレクター”であるが、むしろ”Producer=プロデューサー(制作者)“と言っていい性格を持ち、アウトリーチ(ホール外演奏活動)を兼ね備えた”Plannerプランナー”=発案者であること…ここでの音楽総監督業は音楽“総合職”業である!というのが行き着いた結論だった。

 

結果、予算や事務局の整備は今すぐ実現せねばならない急務だったため市に追加予算枠を認めてもらい、また文化センターのミーティングルームの一室をオケ事務局に充てさせることにしてもらった。オーケストラの種々の困った状況は直接イシュトヴァーンに直接交渉しても埒(らち)が明かないとのイムレからの報告に、ちょうど予定されていた市幹部との会合の席でお願いし上層部の力を借りることにした。市の決定事項としての動きになればイシュトヴァーンの意思に関係なく問題には至らないはずである。果たしてすぐに決定がなされてめでたく解決となったが…イシュトヴァーンとの関わり方はこの後に影を落としていくことになる…。

 

ソルノク響の快進撃!

ヨーロッパの各地が皆そうであるように、ハンガリーも6月後半からの夏の間バカンス(休暇)の時期に入る。多くの店が8月末まで休業をし、公務員であっても数十日間の休みを取ることなどザラだ。ところがソルノク響のための準備プロジェクトはまるで日本並みに(笑)休日返上で進んでいて…大きな変革を期したためにやはり準備には時間を要したが、街の至るところには私の顔写真入りのポスターが貼られ、市内のコーヒーショップ やレストランにまでシーズンプログラム冊子は置かれることになり、なんとミネラルウォーターのビンに掛けられるタグにまでソルノク響の宣伝コピーや私の写真が載せられた。9月からの新シーズン(注4)のスタートまで1ヶ月を切った8月初旬にはなんとか定期演奏会のチケット発売にこぎつけたが…何と!定期演奏会全11 回のチケットは予約も含めてわずか10 日間ですべて売り切れるという嬉しい事態が待っていた。話題が話題を呼んでいる!…周りの準備も整った。あとは幕開けを待つばかりである…!<画像はソルノク響07/08 年間プログラムとタグ>

 

 9月1日…この日は「ソルノクの日」と名付けられており、ソルノク中で様々な公式行事が開かれる。前年はアバ・ノヴァーク文化センターの杮落としでもあり(注5)、今年もオーケストラの記念公演を予定した。音楽総監督最初のシーズンの幕開けだけにプログラム構成にはこだわり、また「テストイヤー」(注6)の意味合いを含めてソルノク軍楽隊との共演でメンデルスゾーンの“管楽器のための序曲”、バルトーク室内合唱団の単独演奏とコダーイの弦楽四重奏曲の弦楽合奏版とつないで趣向を凝らし、ブダペスト合唱団を招いてのチャイコフスキーの大序曲「1812年」(注7)やコダーイ「ブダ城のテ・デウム」(注8)などの祝祭的意味合いの強いものを並べた。一見盛りだくさんではあったが、地元の軍楽隊やバルトーク合唱団や市外の他団体との初めての共演は本当に刺激的で、アバ・ノヴァーク文化センターの大ホール(ハンガリーの大作曲家の名前に因み、リスト・ホールと命名された)を埋め尽くした満員の聴衆からは大きな拍手を頂いた。特に市長からは感嘆とねぎらいの言葉を個人的に頂き、またこの日がソルノクの日だけに多くのVIP も招かれ、終演後のレセプションでは各国の招待客からも声を掛けられて大きな自信となった。

 

 この公演は9/4 にブダペストでも行った。バカーチ広場にあるアッシジ聖フェレンツ・プレヴァーニャ教会の協力を得て、ソルノク響のブダペスト公演という名目のもと、同時に教会で開催という好機に<チャリティ>演奏の意義を盛り込むことにもなった。ゴシック様式の教会内は荘厳という名に相応しいたたずまいと残響が約4~6秒という豊かすぎるくらいの音響を備え、アバ・ノヴァーク文化センターとはまた違う意味でのいい演奏になった。9月というのはまだ音楽シーズンが始まる前だけに首都とはいえ集客が心配されたが心配は無用に終わった…教会の神父様がびっくりするくらいの『大入り』満員だったのである! そして後から思いもかけず継続的にここで演奏して欲しいとの話をもらえるほどであった。<画像はアッシジ聖フェレンツ・プレヴァーニャ教会での公演模様>

 

(注4) 日本の4月開始に対し、ヨーロッパでは学校を始めとする学期や官公庁の年度は9月に始まる。しかし音楽シーズンというのは10/1 の「世界音楽の日」をスタートに始まることが常で、各オーケストラの定期演奏会やオペラハウス・劇場などもこの日をシーズン幕開けとしている。

(注5) ’06 年9月1日はハンガリーレポート①でお伝えしたように前市長の命を受けてソルノク響が開館杮落し演奏会を行っていた。

(注6) 音楽総監督就任にあたって、毎年の活動に関してテーマを設ける事にした。’07 年は就任最初の年として<テストイヤー>…あらゆることを試し検証しながら「ソルノク」を知る!というテーマを掲げた。

(注7) チャイコフスキーが1880 年に作曲した演奏会用序曲で、1812 年の「ナポレオンのロシア遠征」に際しロシア軍がこれを打ち負かした史実をもとに音楽化した作品である。冒頭にはヴィオラとチェロ群によるロシア正教会の聖歌が奏されるが、このコンサートではこの部分を合唱団のロシア語のア・カペラ(無伴奏)とオルガン伴奏に置き換え、後半は軍楽隊のバンダ演奏(オーケストラの外から奏されるブラスバンド)も加わり大きな演奏効果があった。

(注8) ハンガリーの作曲家コダーイが1936 年に作曲した管弦楽伴奏による合唱曲。初演を今回招いたブダペスト合唱団がかつて行い、作曲家自身とこの合唱団との録音も残っている。ちなみにこの合唱団はアマチュア。現在の合唱指揮者はカポシ・ゲルゲイ。

 

ソルノクでの生活と世界的ソプラノ歌手との出会い

さて…こうして以前にも増してソルノク滞在が長くなるようになると、毎回毎回ホテル住まいでは費用も嵩むし生活必需品も出てくる。着替えや必要な物・道具も揃えた上で、それをずっと置いておける場所が必要だ。そこでオーケストラがある家を借上げ、そこを毎回の滞在場所としてくれた。以前サヴァリア響の芸術監督としてアパートの一室をオケが借りてくれていた以来の本格的なハンガリーでの“住み家”の誕生だ。市庁舎前の大通りをそのままアバ・ノヴァ-ク文化センターと反対側に進むとすぐそこはティサ川…川を渡りさらに進むと“ケルト・ヴァーロシュ”(英語で言う“ガーデン・シティ”、直訳すれば「庭園市街」というべきか?)と名のつく閑静な住宅街がある。僕の住む新しい家はその中にあった。一戸建ての一階部分にはダイニングに台所、シャワールーム、リビング、それに寝室がコンパクトにあり、一人で住むにはもってこいの場所。おまけに大家さんは僕のためにケーブルテレビを引き、インターネットにも繋げるよう図ってくれた。しかも驚くことに建物の裏手にはその敷地の倍以上の芝生の庭があり、木製のテーブルや火が起こせるようなスペースまでもがあった。さすがこの辺りが“ガーデン・シティ”と呼ばれるゆえんだ。

 

 あたりはと言うと近くにはザジュヴァ川が流れ、どの家にもいる犬が吠える以外(笑)何も聞こえない閑静な住宅地であり、中には大きな家庭菜園のある家もあった。野生の?リンゴの木が実をつけていたり、路傍の花々は大きなデコレーションの趣さえあったりもする…何とも素晴らしい場所だ。自然に囲まれた中をゆっくり散歩していると、物心ついた頃に遊んでいた生地・福岡を思い起こせるような…そんな気分さえしてくる。東京にいる時は絶対に感じられない感覚…ここが外国であり自分がなぜこんな場所にいるのだろう?とふと妙な錯覚に陥るような…そんな思いさえしてくる。コンクール優勝からもう12 年が経ち、その後ずっと不安定なまま日本との間を行き来していた間には、自分がこんな立場で住まいを持つことになろうとは夢にも思わなかった! そして縁あってこの地ソルノクでの新たな生活のスタートだ。<画像はケルト・ヴァーロシュの住まい>

 

 順調なスタートを切った07/08 年のシーズンの次の仕事は、式典での演奏だ! ハンガリーのある政府関係機関は毎年、芸術、文化、医学、スポーツ等の分野での顕著な活動・功績を残した人物や団体に<プリマ・プリミッシマ賞>を授与していたが、ここソルノクでもその地方版としての<プリマ賞>の催し物が今年も開催されることになっていて、私とソルノク響はその授賞式での祝祭演奏をするのだ。ところが関係者から聞いた話には驚かされた。一つは今年の受賞団体候補に我がソルノク響が選ばれていること! もし受賞が決まれば自らの受賞を自分たちの演奏で花を添える…それ以上に我々の存在を圧倒的に誇示できるチャンスなのだ。このプリマ賞授与式というのは、ソルノク市及び県はもとよりこの地方一帯から、政治家や企業の社長、地元の名士・大立者といった名だたるVIP が集まる一大イヴェントであるから、ここでの演奏披露そして受賞となれば、この地元の隅々までソルノク響のことが広まるだけでなく…ブダペストや他の地域にまでその名を知られることになる…! そしてもう一つの大きな大きな話題を呼ぶ驚きの内容…それはハンガリーを代表する世界的ソプラノ歌手 アンドレア・ロスト(注9)が今回のゲストだということだ! 聞けば彼女、生まれはブダペストだが幼少の頃にこの(おばあさんがいらしたという)ソルノクに住んだことがあり、またこれまでの国際的活躍を賞され「ソルノク市名誉市民」の称号を持つのだそうだ。ところがこれまでソルノク響とは一度も共演機会がなく、今回新たな音楽総監督就任に当たって昵懇の間柄の関係者が彼女をこのイヴェントに招き彼女も快諾したという経緯らしい。私がブダペストの空港に降り立つ度にまず目につく“Welcome!”の大きな看板…そこに写る美しい笑顔のディーヴァ(歌姫)こそ彼女だったのである。

 

 共演の曲はオペラアリアが4曲…プッチーニやドニゼッティ、ベッリーニといった作曲家のよく知られた楽曲であるが、実は共演する我々にとってはそういう曲ほど大変だ。世界の第一線で活躍する彼女はもう数えきれないくらい歌っているだろうし、オペラを知り尽くしたマエストロ(指揮者)や歌劇場オーケストラとの数多くの経験もあるだろう。しかも彼女が来るのは本番直前のわずかなリハ時間に合わせてのみ。スター歌手である彼女にしてみればリハなど必要ないくらいだろうが、普段シンフォニー演奏が圧倒的に多いこのオーケストラとその指揮者にとっては、そのわずかな時間内で彼女の歌唱を把握せねばならず全てのカギになる…つまりそのリハの内容によってこの歌手に我々の実力や能力の程を評価されるのだ! 本番の数日前から事前楽曲勉強を徹底して行い、オケとは様々なテンポや歌い回しを想定した入念なリハーサルを重ねて…そして本番当日がやってきた。

 

 ソルノク・ガレリア(注10)での会場リハーサル、オーケストラのみの練習を行っていた時にふと背中に感じた気配…アンドレアがやってきた。オーケストラの面々も目ざとく彼女を見つけ、会釈を送る。そして顔合わせの挨拶…初対面の彼女は思ったより小柄で、そして気さくな女性だった。大歌手にありがち?な慇懃な態度などではなく、「本当に楽しみにしていたのよ…!」と笑顔で話しかけてくれた。すぐさま私は…彼女をお茶に誘った!(笑)。いきなりオケと合わせるのでなく、テンポの動きや楽曲の歌い回しについて相談をするためである。オーケストラを休憩させ、会場入り口前にあるカフェに連れ立った。

 

 スコアを開き楽曲の流れを追いながらオケの部分を私が歌う…それに彼女がメロディを口ずさむ。テンポが揺れ動く場所は、その口元を伺いながら予想される“揺らぎ”を実際に振ってみる…それを見て彼女が歌う…とてもスムーズな感じだ。特にドニゼッティの歌劇「ドン・パスクワーレ」のノリーナが歌う“騎士はあのまなざしを”や歌劇「ランメルモールのルチア」のルチアのアリア”あたりは沈黙に閉ざされ”は縦横無尽にテンポが目まぐるしく変わるが、あらかじめ予想していたオーソドックスなスタイルで彼女はぴたりと歌い、私はそれをリードして運ぶ…。通常なら「音楽稽古」としてピアノを前に打ち合わせつつ互いの音楽の突き合わせを行うのだが、今回はピアノの用意もなく、また十分な時間もない。しかし事前のこうした打ち合わせは音楽のカギになり、互いを信頼できるかどうかの重要な分かれ目だ。彼女の表現したい音楽とその歌唱を生かす『合わせる』指揮も必要なのだけれど、反対に彼女の歌唱をリードする音楽作りも必要なのだ。素晴らしい歌手が(伴奏でなく!)音楽上の共演を望むことを、これまでの経験が私に知らしめてくれていた。彼女が私を気に入ってくれた様子…歌劇「ラ・ボエーム」のミミのアリアにある、一か所だけ相手役のロドルフォが相槌を打つ場所でまさにいいタイミングで私の歌が出た時、ニコッと笑ってくれた笑顔…に信頼感を得た思いだった!

 

 公演は大成功! 演奏中彼女は本当に自由に歌ってくれ、こちらも楽しい共演! 後で聞いた話だが、彼女の演奏をよく知る関係者によると、これが初対面での演奏だとはとても思えないくらい彼女がリラックスして安定した演奏だったそうだ。そして果せるかな「プリマ賞」をオーケストラも頂けて大喜びをしたのも束の間、サプライズはさらに続いた。 「マエストロは車の運転はしないのかね?」 演奏会後のレセプションで私は囲まれた人々の一人からこう尋ねられた。「いえいえ、ハンガリーで必要な国際免許証を取得していないのですよ…」と答えると、「だったら、すぐに取りなさい。車を用意するから」。初対面の人物にこう言われて最初は冗談かと思ったが…後で現実のものになるとはこの時想像もしなかった!

 

 引き続き場所を変えて、市内でも有数のコンディトライ(自家製ケーキを販売し、そこで食べることもできるお店)での打ち上げで、やっと取り巻きの少なくなったアンドレアと再びゆっくりと話すことができた。ミラノ・スカラ座やハンガリー国立歌劇場、そしてサイトウ・キネン・オーケストラ公演でもう何度も日本を訪れていた彼女は既に日本通であった。会話は弾み、こんな話になった。アンドレア「あたし蕎麦が好きなの。しかも茶ソバは最高!」 井﨑「そうなの?じゃぁ、次に日本に来た時にはごちそうするよ!」 アンドレア「うわ~それは嬉しいわ!」 井﨑「そうそう、来年このソルノク響は日本ツアーをやるんだよ!」 アンドレア「まぁ素敵…ねぇソリスト必要じゃない? あたし一緒に行きたいな!」…“瓢箪から駒”、“棚からボタ餅”、“渡りに船” いや、なんと言ったらいいだろう?(笑) 世界的に有名な歌姫が、自分から日本ツアーに同行を申し出るなんて、有り得ない話である! 今日こうして初めて共演できた上に、その後にはもうツアーの話に至るなんて…大きな大きなサプライズだ。早速イムレや他のオケ関係者にこのニュースを伝えた! 興奮しながらイムレは言った「ええ~本当か?? それは素晴らしい! こんなチャンスは滅多にないぞ~さすがはMasa! …で彼女のギャラはどうする? 高いぞ!」 最後の一言に絶句した音楽総監督であった!

 

(注9)アンドレア・ロスト…正確にはハンガリー表記で「ロシュト・アンドレア」。リスト音楽院卒業後に1989 年ハンガリー国立歌劇場でグノー作曲「ロメオとジュリエット」のジュリエット役でオペラデビュー。1991 年にウィーン国立歌劇場ソリストとなり「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「ランメルモールのルチア」「椿姫」などの数々のオペラで主役を務める。1994年にミラノ・スカラ座で音楽監督リッカルド・ムーティの招きにより「リゴレット」のジルダ役でスカラ座  デビューを飾り、その後たびたび客演。その後もザルツブルグ音楽祭、バスティーユ歌劇場、コヴェント・ガーデン王立歌劇場、メトロポリタン歌劇場と世界各地での演奏は枚挙にいとまなく、また日本にも新国立歌劇場に客演している世界的プリ・マドンナ! こんな素敵で素晴らしい歌い手さんでいながら、21 歳と19 歳のお子さんのいるお母さんなのである!

(注10) もともと「シナゴーグ」(ユダヤ教の会堂)であり、その後にキリスト教の教会として使われていたが、現在では壁面に絵画を常時展示するギャラリーとして運用されている。天井の高い広々とした空間であるため残響が非常に長いことからしばしば演奏会場としても使われており、ソルノク響も現在「ファンタジア定期演奏会」(アバ・ノヴァーク以外での開催定期)の主要会場の一つとしてたびたび演奏を行ってきている。

 

数々の新たな試みと展開

ソルノクの音楽総監督になっても、それまで日本国内でずっと関わりのあった各団体との繋がりや演奏はもちろん続いている。したがって、毎月日本とハンガリーを行き来することになる。2週間滞在してはまた2週間帰る…3週間戻っていたらまた3週間帰っていく…それはハンガリーに帰るのか?日本に戻るのか?というのではなく、その両方のバランスを取りつつ行き来することである。「そんなに行ったり来たりしていて体は大丈夫?」とよく訊かれるが、いたって健康! ただ環境が変わって1週間はいわゆる“時差ボケ”がついてまわる。ソルノクでは夕食を食べたら体が脱力するかのように眠くなるし、東京では未明になっても眠る気がしない…しかし悩まされているわけでもないのだ。日常の活動に合わせた中で生活リズムを作っていけば至って楽だし、例えば東京~ブダペストの13 時間以上のフライトでさえも、今ではすっかり慣れてしまって「休息・勉強・気分転換の場所」ですらあるように感じているのだ!

 

10 月、再び渡航したソルノクに待っていたのは…何と新車・プジョー307! あのガレリアでのレセプションで声をかけてくれたのは、プジョーの社長さんだったのだ。もともとオーケストラのスポンサーとして広告媒体や会員券購買での援助をしてくれていたのだが、ついに公式スポンサーとして1台新車をプレゼントしてくれたのである。ドアには“ソルノク交響楽団・スポンサーby プジョー”のロゴマークが! これにはただびっくり…まさかあの立ち話で車1台頂けるとは! 僕の滞在中は自由に使っていい事になっていて、ガソリン代も提供してくれるとか…もう至れり尽くせり! しかし…当たり前のことだが、ハンガリーは左ハンドル・右側通行である。しかも故郷・福岡を離れての東京暮らしを始めて以来、車を運転するのは帰省した時ぐらいしかその機会もなかったのだ。約束通りに国際免許証は取得していたものの、運転なんて一体できるだろうか? こればっかりは慣れるしかない! しかも日本ではずっとオートマティック車に乗っていたが、ここはマニュアル車! クラッチの癖がなかなか飲み込めず最初はエンストばかりだし、カーブに差し掛かった際にウィンカーを出そうとすればいきなりワイパーが動き出す始末(注11)。いやはや大変である! <画像は愛車・プジョー307>

 

 1956年に起こったハンガリー動乱を記念して、10月23日は「革命と共和国記念日」というハンガリー国民の休日となっている。この日に因んでソルノク市とデブレツェン市でベートーヴェンの「第九」を演奏して大変な好評を得た。デブレツェン市にあるプロの合唱団「コダーイ合唱団」の力強さと繊細さを兼ね備えた声には全く持って魅了され、また久しぶりに再会したソリスト歌手達との楽しいアンサンブル作りは本当に充実感を味わうものであった。 またソルノク響の<アバ・ノヴァーク定期>では毎回あるテーマ性を持たせているが、11 月の定期は名付けて“エキゾティックな夕べ”! R.=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」をメインに、ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」組曲やボロディンの交響詩「中央アジアの草原にて」などを並べてお客さんの喝采を浴びたと同時に、あるレストランと提携して終演後にお客さんにカクテルを振る舞うなどのサービスも行った。またある回ではガーデニング専門学校の講師とその生徒さんを招きステージを花でデコレーションしてもらったり、また別な回ではホールと同じフロアにある空間をギャラリーとして絵や彫刻を展示して楽曲と関連付けたりもした。<画像はデブレツェンでの第九演奏会-デブレツェン文化センターホール>

 

こうした色々な試みのほぼ全てで大好評を得ることができ、新聞やテレビでも大きく取り上げられ、ソルノク響の評判はすっかり定着して多くのファンからの支持を得る一方、オケの噂話がハンガリー中にも評判になっていた。ある演奏会のため客演したハーピストから聞いた話だと、「今何かがソルノクで起こっているらしい?」「オケのレヴェルがすごく上がっているらしい?」「団員のサラリーも上がっているらしい…?」などの噂をいろんなオケで聞いているそうだ。オケによっては(ソルノク響のように)ハープの正団員がおらず(注12)、そのためその度に色んなハーピストたちが呼ばれて客演に行く。したがってオケマンたちのこうした噂を敏感に耳にすることになるそうだ。ソルノクの地にとどまらず、こうした評判がハンガリー中に広まることは、音楽総監督としてやっている活動や変革が功を奏してきたということ! これは嬉しい噂だった!

 

こうした成功を受けて、市長からはさらなる申し出があった。「今後予算面では便宜を図る用意があるから、さらに市の音楽レヴェル向上のために努力して欲しい。特に劇場との連携は重要視して欲しい…。」 ソルノク市立スィグリゲティ劇場は小さな劇場だが、このソルノク県はじめ近県に充実した劇場施設がないため、この辺りでは有数の娯楽施設として名を馳せてはいた。しかし演目が旧態依然として演劇中心であったため、市長はこの劇場の発展も視野に入れて音楽面での充実も考えていたようだった。ちょうど我々もこの劇場の音楽監督兼指揮者のラーツ氏をソルノク響の客演指揮者として招いていたし、私が日本にいてソルノク不在中のオケのトレーニングも彼に頼んでいた矢先の話だった。そして劇場には新たな総支配人として市長の命を受けたバラージュ氏(ハンガリーでは名の通った映画・舞台俳優)が就任したばかりだった。こうして次々と着手せねばならない仕事が増えてきた!

(注11)日本では通常、車のハンドルの右側にウィンカーのレバー、左側にワイパーのレバーが付いている。しかしこのプジョーをはじめすべての左ハンドル車では左側にウィンカー、右側にワイパーが付いている。左ハンドルの右側通行という特別な状況には何とか慣れたとはいえ、ついウィンカーを出すつもりがワイパーを動かしてしまう…習慣とは恐ろしいものだ(笑)。ちなみに日本で販売されている外国車の一部はハンドルを左から右に付け替えただけであるから、日本車とレバーの位置が逆になっている!

(注12)オーケストラのレパートリー(演奏曲目)を調べてみると、ハープを含む楽曲がそうでない楽曲の数よりかなり少ないのは明白だ。従ってオーケストラによっては予算削減のためハーピストを団員として常時雇用せず、ハープの含む曲を演奏する時のみエキストラとして(一時)雇用契約を結ぶことが多々あるのだ。

 

「日本公演」を前に越えなくてはならない大きな壁?

さてここでまた日本の話…、皆さんに現在進行中の厳しい舞台裏をお伝えしよう。会報前号でもお伝えしたように音楽総監督就任が決まった際、所属している事務所・コンサートイマジン佐藤社長からはソルノク響の日本公演のお話を頂いていた。しかも日本とハンガリー記念のこの年(=2009 年 注13)には一年を通して日本ハンガリー友好協会が主催となってハンガリーフェスティヴァルも開かれることになっていて、ソルノク響の公演はこのフェスティヴァル公式公演に認定して頂けるそうだ! これはぜひハンガリーらしい演目を考えなければ!…と、そこで思い付いたのが合唱団との来日公演だった。これまでハンガリー国立フィルやブダペスト祝祭管弦楽団などが来日して数々の名演を重ねてきているが、ハンガリー独自の演目での合唱を含む曲の演奏は記憶にない(注14)。ハンガリーは<合唱王国>として日本でも広く知られている以上、この機会にぜひ本場の合唱の素晴らしさ!オケと奏でるハンガリー音楽の神髄!を皆さんにお聴かせしたくなった。ハンガリーのオケとハンガリーの合唱、そしてハンガリー人のソリストによるハンガリーものの公演のため…来日に同意してくれたアンドレアや国立歌劇場のソリストを呼び、合唱はソルノクのバルトーク室内女声合唱団と第九で素晴らしいハーモニーを奏でてくれたデブレツェン・コダーイ合唱団を招こう! きっとかつてない素晴らしいものになる!!…そう思いついたアイデアに心躍る気分だった。

 

ソルノクという都市、そこのシンフォニー・オケ…どちらも日本では全くと言って 知られていない場所、そしてオケであるからこそ、お客さんには先入観なしに演奏を聴いてほしいし、逆にそこで多くの方に知られている有名な楽曲を演奏してもソルノクのオケである必要はないのである。だったらこれまで日本でやられる機会の少なかった楽曲を演奏することによって逆に注目を集めるのではないだろうか? こうした思いが沸々と湧き、プログラムにはハンガリーを代表する作曲家コダーイの作品を演奏したい思いでいっぱいになった。

 

しかし全行程の参加人数を考えるならば、合唱団付きの来日公演には同時に 莫大の費用が嵩むことをも考慮せねばならない。来日するにあたってオーケストラが75 人、合唱団が60 人、ソリストが4 人、合唱指揮者が2人に私を含む指揮者が2人、そして公演スタッフも合わせれば…約150 人規模のものになる。そのすべての旅費と滞在宿泊費、そして国内移動や楽器の運搬にかかる費用を全て計算すると莫大な金額になる。これに出演者のギャランティ(出演料)が加わり…これら経費のすべてを演奏会のチケット収入のみで賄うとすれば、チケット代はウィーンフィル日本公演並みの高額になってしまうことをマネージャーから聞かされて仰天し納得せざるを得なかった。周りのクラッシック海外の来日記のオケの渡航費はどうやって捻出しているのか?ヨーロッパの多くの場合は国や地方自治体が負担し、それ以外はスポンサーとの提携によって莫大なお金が動いている。来日の目処がつけば、招聘元では来日したその団体の公演数をできる限り増やして利潤を増やし、同時に一公演あたりの経費を抑えられるよう計る。団体の公演料を決めて全国各地のホールや自治体、興行主に営業活動を展開するのだ。しかし不況のこの時代、名の知れていない団体を売り込むには十分で効果的なプレゼンテーションを行うか、オーケストラの公演料(価格)を抑えて安く売り込むしかない。したがって往復渡航費の捻出はもちろんだが、ソルノクという名を知らしめて公演ができるようするためには、そのソルノクを最もよく知る私自身の手腕で宣伝や各地での営業活動を行う必要性があるのだ。

 

私自身の手で<公演概要>や<公演趣意書>を作成し、リスク回避を見込んだオーケストラ公演料(値段)を決めて、それらの資料と価格でイマジンには独自のルートで全国に展開をしてもらう一方、これまでにソルノクとの繋がりがあった山形県酒田市や、遊佐町、山形市などを実際に訪れて公演の開催を呼び掛けたり、生まれ故郷である地元・福岡や隣県・佐賀や熊本を訪れそこのホールや新聞社に資料を携え訪ねたりして、東京以外の地方での公演開催の可能性がないかを尋ねてみる。同時にハンガリーではソルノク市庁舎内にプロジェクトチームを組んでもらい、全体予算案を立ててどれだけのお金を集めなくてはならないのかを計算する一方、日本大使館や企業にも渡航費用の助成のお願いに足を運んだ。ハンガリー政府にも働きかけ、外務大臣や文部大臣にも手紙を書き、日本ハンガリー友好協会や在日ハンガリー大使館の協力も仰いだ。こうしているうちにこの<来日公演プロジェクト>はどんどん話が大きくなっていき、もはや一つのオーケストラの海外公演というレヴェルをはるかに超え、日本での「ハンガリーフェスティヴァル」参加のためのソルノク市とハンガリー政府レヴェルのプロジェクトというものに巨大化したのだ。多くの人が関わって知恵を絞り、結果として通常の<商業的公演>の枠を外れて<国際交流>という使命も加わり、多くの問題点を抱えながらも日本公演の目処は(何とか!)立ったのである。

(注13) 今年は日本とハンガリーが修好通商条約締結による国交開始から140 年、戦後国交が回復してから50 年、ハンガリーが共和国制を敷いてからちょうど20 年という記念の年に当たる。年間を通してわが国では日本ハンガリー友好協会が中心になって<ハンガリーフェスティヴァル>が開催されるが、同時に国際交流基金によって集められた資金で、ブダペストのドナウ河畔にある「エルジェベート橋」のライトアップが行われることになっている。

(注14)これまでハンガリー国立フィルが「第九」(ベートーヴェン)や「カルミナ・ブラーナ」(オルフ)などを演奏しているが、ハンガリーの作曲家の合唱付きオーケストラ作品を演奏した例はないと思う。ちなみに<ハンガリーフェスティヴァル>には、そのハンガリー国立フィルやブダペスト祝祭管弦楽団などのメジャーオーケストラの参加予定及び来日予定はない。唯一ソルノク響がメインオーケストラなのだ。

 

大晦日…ソルノクで!

もう何年も暮れとお正月の時期をハンガリーで過ごすようになった。日本にいれば帰省した福岡やたくさんの親戚のいる佐賀で味わえる美味しいお節料理を食べられないのは本当に「涙を飲む」思いなのだが、ここでは日本では絶対に経験できないヨーロッパの人々の習慣と生活に触れることができ本当に興味深い。日本と違い、クリスマスは12/24~26 が国民の休日になるせいか皆本当に静かに過ごす。主だった商店のほとんどが店を閉め、どの家庭にもクリスマスツリーが飾られる(ツリーは1/15 あたりまで飾られていることがほとんどだ)。また大晦日のカウントダウンとともに静かだった様相は一変し、新年を迎えた街の中心街では打ち上げ花火が上がり、遅くまで皆騒いで過ごす。ちなみに新年を迎えたら必ず平たい豆の煮物を食べ、お金が貯まりますようにと願掛けをする。そんな風物詩はここハンガリーならではである。

 

ソルノク市長の要請と新劇場総裁のアイデアを受けて、大晦日の日シグリゲティ劇場では夜9時半開演で<ジルヴェスター・ガラコンサート>が開かれ、内外の著名歌手・俳優による歌唱が繰り広げられることになった。演奏をソルノク響が担当し、指揮を劇場指揮者・ラーツ氏と私とで振り分ける…これは刺激的な体験であった! ハンガリーのテレビ局(Duna-TV)がこの劇場から生中継でハンガリー全土はもとより、旧ハンガリー領のルーマニアやスロヴァキア、隣国オーストリア、ドイツ、そしてアメリカやオーストラリアにも配信することになっていたのだ。

 

私の指揮するヨハン・シュトラウス作曲のワルツ「春の声」で番組(公演)はスタート。途中次から次へとオペラ歌手・オペレッタ歌手が舞台に現れ得意の喉を披露したり、バレエや民族舞踊団がステージを所狭しと踊り回ったりする。このすべての演目・約40 曲をオーケストラが演奏し2人の指揮者が交代で振り分ける。私の担当はほとんどプログラム後半で、クライマックスが用意されていた。すべての演目が終了し、劇場俳優による詩の朗読…そしていよいよカウントダウンだ! 私の合図によって10回の鐘の音が響き、深夜零時をちょうど回ったところでハンガリー国歌(注15)を指揮し始める。満員の劇場聴衆は前奏を聴くや否や椅子から立ち上がって、全員での斉唱で静かな合唱が始まる。歌い終わると皆が抱き合いキスし合って、新しい年の訪れを一緒に迎えられたことを祝うのだ。私も指揮し終わってコンサート・マスターや他の団員と抱き合って演奏が無事大成功に終わったことを喜びあった。劇場中が、そして舞台でもオーケストラ・ピットでも、すべての人々と“Boldó, Ú Éet!”(ボルドッグ・ウーイ・エーヴェット…「新年おめでとう」の意味)の言い交わし、その声はずっと途切れることなく遅くまで続いていた…!<スィグリゲティ劇場・オーケストラ・ピットにて>

 

ハンガリーの人々には、日本人が地方都市ソルノクの劇場で国歌を指揮するのはどう映ったのであろうか? でもそんなこと気にするよりも、2007年・音楽総監督の初めての年を無事つつがなく過ごせたことに対する安堵と満足感でいっぱいだった。これからやるべきこと、これから直面する問題は、まだまだいっぱい山積みされているし、これからも増えるに違いない。オーケストラの文化センターからの独立=法人化の推進、すぐに着手せねばならない来シーズンの計画立てとさらなるオーケストラの可能性の模索、フランス、フィンランド、そして日本公演の計画と資金集め…枚挙にいとまない重要案件がいっぱいだ。でも気の置けない仲間たちにまるで家族のように囲まれ、ソルノクをもうひとつの家として生活できることに大きな喜びを感じながら過ごしていると、きっとすべてがうまい方向に向いてくれるような気がする。いやそうなることが課せられた使命(=天命)だと思えるようになってきたのである。

(終わり)

 

(注15) 賛唱(Himnusz=ヒムヌス)と言われるこの曲は「神よ、マジャール人を祝福し給え」で始まる8番まである曲。通常は1番のみ歌われる。作詞はキョルチェイ、作曲はハンガリー国民音楽の祖・フェレンツによるもので、1903 年に制定された。

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